植物図譜(ボタニカルアート)の歴史
ボタニカル・アートの起源は、古代ギリシャにさかのぼります。
薬草を用いた医学から本草学を生み、後の植物学に変遷する際、常に植物の特徴をとらえた植物画が存在しました。キリスト教下の中世では、空想を加えた植物画、その後のルネサンス期には、細部にいたるまで精密に描かれています。
16世紀半ばの『植物誌』は、植物の全体像を図版に納めたバランスに現実性がない図版が特徴的です。
その後1501年イタリアに生まれたマティオリは、その植物の特異な部分を拡大して描き細かい陰影を線状に表現しています。
又、細部の解剖図の登場は体系的な科学性を含んだ植物学への発展に寄与することとなりました。
16世紀の航海技術は、未知の植物をヨーロッパへもたらしました。各国王家間で競って探検隊を派遣して新しい植物を学会に紹介するため植物画の需要が高まりました。探検には画家が同行したり、採集し持ち帰った乾燥標本から復元画を描いたりしました。
ヨーロッパ各地で植物画は存在しますが、当時財力で秀でるイギリスは特に植物画に貢献しました。18世紀後半のの産業革命では市民に裕福層を広げ、植物愛好家も増えました。
1787年には、王立キュー植物園の刊行誌、W・カーティス『ボタニカル・マガジン』の刊行や、又イギリスで開発された多色点刻銅版画(スティップル・エングレーヴィング)の技術は、海を越えフランスのルドゥーテ、ベッサによって開花されました。
当時の版画は、輪郭線を印刷した原画に手彩色していたのですが、実際の植物にはない黒い輪郭線が違和感を残していましたが、この画期的な技術色により輪郭線が消え、ふんわりとした植物の立体感がみごとに再現されたのです。